徳力団地の発展によって周辺の環境も劇的に変化
【DAY38】
土曜日は、爽やかな好天の中、最近とみに日焼けしたタケウチ、南区の徳力団地を歩きながらのご挨拶をさせていただきました。
ベランダから手を振ってくださった皆様、本当にありがとうございます。
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以下、調べてみると・・・
徳力団地の施工は1966年。高度成長期の真っただ中です。
住居希望者が殺到し、抽選によって住居者を定めていたそう。
当時の住居者は、医師や弁護士、教員といった比較的裕福な核家族の家庭が多かったとのこと。今のタワマン族のようなイメージでしょうか。
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当時は西鉄路面電車の北方線が国道322号線を走っていて、北九州の中心部小倉と小倉南区を繋いでいたそうですが、その終点である北方から国道322号線に沿って約2km南に位置するのが徳力。当初この地域は交通網の開発が進んでおらず、あたりは水田ばかりの土地だったとのことです。
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当時工業都市であった北九州市で、住宅が小倉北区のみでは足りなくなり、少し離れているが都心部へ通うのに比較的容易な小倉南区の北側に位置する徳力が適していると判断されたとのこと。
小学校が団地の近くになかったため、子供たちは団地から平均して1.5km以上離れた企救丘小学校に歩いて通っていたそうです。
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そんな当初の徳力団地を今日の姿へと導いたのは徳力団地住民の人びと。
1967年から自治会を発足させました。
自治会を通じて徳力団地の住民たちの意見を市や教育機関に伝え、小学校、幼稚園保育園の開設、西鉄バスの全面乗り入れ、駐車場の確保などを実現させていきました。
わずか5年ほどで徳力団地の環境は大幅に改善されていったそうです。
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徳力団地の発展によって周辺の環境も劇的に変化し、国道322号線は道幅が拡張され、1978年にその中央部にモノレールが開通したのも徳力団地の発展が契機となったのかもしれません。
そして、徳力団地を追うようにして守恒、企救丘にも団地が登場しました。
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そんな歴史に思いを馳せながら、この界隈の巨大団地の群居には、北九州市という都市の歴史、住民の方々の思いと格闘の軌跡を感じつつ、コツコツと歩む土曜の午後でした。
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明日からも、皆さんと一緒に、進んで参ります。
北九州なら、必ず、できる!!